11・27 ついに2万人のデモ隊が国会突入したぞ!!
国会突入が呼び水となって労働者もゼネストに突入。 その規模何と590万人!!
国会前の抗議闘争も空前の33万人に膨れ上がる
ついに自民党政権を打倒したぞ!
みんな、仕事を放棄して集会に行こう!!
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じつはこれは50年前、労働者学生市民が一体となって阿部晋三の祖父でA級戦犯の岸信介を実力で打倒した時の出来事でした。
秘密保護法と日本版NSC、原発で50年前の岸信介同様に阿部政権を打倒しましょう。
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50年前の闘いのようすを少し振り返ってみましょう。
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11・27 安保阻止統一行動で2万人の労働者学生が国会構内突入 (1959年)
11月27日【今日は何の日-3】デモ隊が国会構内突入
1959年、安保条約改定阻止国民会議のデモ隊2万7千人が、国会構内に二度に渡って突入。一時間以上も座り込み、国会史上前例のない事態に。
日本帝国主義は52年の安保条約を改定し、日米安保同盟を強化し日帝の侵略と抑圧の体制を狙っていた。これに反対する59年11・27国会構内突入闘争は、60年安保闘争の巨大な烽火だった。全学連と東京地評傘下の労働組合の労働者2万人が国会構内に突入し、前庭を解放区と化した。この闘いの先頭に立った全学連は、その指導部の共産主義者同盟(ブント)とともに脚光を浴びた。ブントは日本共産党の民族主義と議会主義と内部から闘い、前年に結成された。この年の9月に旗揚げした革共同全国委員会は、ブントとともに闘ったが、まだ少数派だった。
この後、60年1・16羽田闘争や、4・26国会闘争を経て全学連は数千、数万の大衆的闘いをつくり出した。特に5月19~20日の機動隊を国会内に導入しての強行採決以降、人民の憤激は爆発的に拡大した。
6・4ストは労働組合の反安保の実力行使の第1弾だった。それは、総評指導部の思惑を超えて、国鉄、全逓を先頭に下からの戦闘的労働者の力でかちとられた。だが、平和的ストとして押さえ込みを図る総評指導部は、これをさらに発展させる気はまったくなかった。まさに安保闘争は、闘う労働者の指導部の問題を浮かび上がらせたのだ。
国家権力は国会南通用門に閂をかけ、3本の丸太で補強し、内側に三重四重のトラックを配置して阻止線を張った。攻防2時間、門をこじ開け、トラックを引き出し、学生はスクラムを組んで構内に突入した。放水と警棒の乱打による弾圧をはねのけて機動隊との激突が展開された。この中で22歳の東大生、樺美智子さんが警官に殺された。
「殺された学友のために1分間の黙祷をやろう。だが、その前に警官隊は鉄かぶとをとれ!」と北小路さんが声を張り上げ「トレ!トレ!」の全員の叫びが議事堂を揺るがした。この後、再び機動隊との再度の激突が展開された。
6・4ストを全労働者のゼネストに発展させようとする指導部は存在せず、第2波統一行動の15日には1本の電車も止まらなかった。全学連の6・15闘争は、闘いの議会主義的収束に抗して、帝国主義と労働者階級の非和解的対立を身をもってさし示した。また、この闘いに真っ向から敵対した日共は、その反労働者的本質を暴かれ、「前衛党」神話を崩壊させた。
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1960年
1・16 岸訪米に対し全学連が羽田空港ビルに座り込み機動隊と激突
1・19 ワシントンで日米新安保条約調印
4・26 全学連、国会周辺で機動隊と激突
5・19 衆院安保特別委で自民党が採決強行。 警官を導入し、社会党議員を排除、会期50日延長、新安保条約承認の強行採決 5・19 衆院安保特別委で自民党が採決強行。 警官を導入し、社会党議員を排除、会期50日延長、新安保条約承認の強行採決
5・20 全学連、首相官邸突入
6・4 安保改定阻止第1次実力闘争、国労などストライキ。全国で560万人参加
6・15 全学連、国会構内突入、樺美智子さん虐殺される
6・18 国会への抗議闘争、空前の33万人
6・19 午前0時、新安保条約自然承認
6・23 新安保条約批准書交換、発効
(護憲・ 反原発ブル/ 小牧& 丸木寿人さんの記事から)
1959年11・27 安保阻止統一行動で2万人の労働者学生が国会構内突入
■国際労働運動の暦 6月15日
■60年安保6・15闘争■

全学連が国会に突入
社共の「平和と民主主義」のりこえ戦後史転換させた戦闘的実力闘争
1960年の新安保条約批准阻止闘争は、日本の戦後史の中で画期的な高揚を示した大衆的政治闘争だった。その中でも、60年6月15日の全学連を先頭とする国会構内突入闘争は、樺(かんば)美智子さん虐殺をのりこえた大衆的戦闘的決起として歴史に刻まれている。
59年、A級戦犯・岸信介首相のもとでの安保条約の改定交渉に対する怒りが高まっていった。戦争の傷跡はまだ生々しく残っており、「二度と戦争の道は歩まない」という労働者階級の危機感と闘いの決意は固かった。
59年、A級戦犯・岸信介首相のもとでの安保条約の改定交渉に対する怒りが高まっていった。戦争の傷跡はまだ生々しく残っており、「二度と戦争の道は歩まない」という労働者階級の危機感と闘いの決意は固かった。
日本帝国主義は52年の安保条約を改定し、日米安保同盟を強化し日帝の侵略と抑圧の体制を狙っていた。これに反対する59年11・27国会構内突入闘争は、60年安保闘争の巨大な烽火だった。全学連と東京地評傘下の労働組合の労働者2万人が国会構内に突入し、前庭を解放区と化した。この闘いの先頭に立った全学連は、その指導部の共産主義者同盟(ブント)とともに脚光を浴びた。ブントは日本共産党の民族主義と議会主義と内部から闘い、前年に結成された。この年の9月に旗揚げした革共同全国委員会は、ブントとともに闘ったが、まだ少数派だった。
この後、60年1・16羽田闘争や、4・26国会闘争を経て全学連は数千、数万の大衆的闘いをつくり出した。特に5月19~20日の機動隊を国会内に導入しての強行採決以降、人民の憤激は爆発的に拡大した。
6・4ストは労働組合の反安保の実力行使の第1弾だった。それは、総評指導部の思惑を超えて、国鉄、全逓を先頭に下からの戦闘的労働者の力でかちとられた。だが、平和的ストとして押さえ込みを図る総評指導部は、これをさらに発展させる気はまったくなかった。まさに安保闘争は、闘う労働者の指導部の問題を浮かび上がらせたのだ。
(写真 国会南通用門から突入を図る全学連が警官隊と衝突(60年6月15日】)
●万余の学生が決起
一方、相次ぐ指導部逮捕の中で、急遽京都から上京した北小路敏全学連委員長代行の指揮のもとに15日の闘争は闘われた。全学連は南通用門から国会構内に突入し、構内で安保粉砕・岸内閣打倒の集会を開くことを追求した。万余の学生が国会前に詰めかけた。
国家権力は国会南通用門に閂をかけ、3本の丸太で補強し、内側に三重四重のトラックを配置して阻止線を張った。攻防2時間、門をこじ開け、トラックを引き出し、学生はスクラムを組んで構内に突入した。放水と警棒の乱打による弾圧をはねのけて機動隊との激突が展開された。この中で22歳の東大生、樺美智子さんが警官に殺された。
「殺された学友のために1分間の黙祷をやろう。だが、その前に警官隊は鉄かぶとをとれ!」と北小路さんが声を張り上げ「トレ!トレ!」の全員の叫びが議事堂を揺るがした。この後、再び機動隊との再度の激突が展開された。
6・4ストを全労働者のゼネストに発展させようとする指導部は存在せず、第2波統一行動の15日には1本の電車も止まらなかった。全学連の6・15闘争は、闘いの議会主義的収束に抗して、帝国主義と労働者階級の非和解的対立を身をもってさし示した。また、この闘いに真っ向から敵対した日共は、その反労働者的本質を暴かれ、「前衛党」神話を崩壊させた。
●労働者党の創成へ
全学連の大衆的戦闘的決起にもかかわらず、革命的左翼の未成熟によって、闘いは社会党、共産党の「平和と民主主義の勝利」という議会主義的総括をのりこえられず、敗北を喫した。ブントはスターリン主義に対する対決の不徹底や、前衛党組織論の未熟さなどから、政治的に破産し分解した。社共に代わる労働者党が求められていた。
60年安保闘争の敗北の教訓を「反帝・反スターリン主義を綱領的立脚点とするプロレタリア党の創成のための闘い」として総括した革共同は、その旗のもとにブントの革命的翼を結集する闘いに勝利し、革命的労働者党建設に向かっての苦闘を開始した。
60年安保闘争の敗北の教訓を「反帝・反スターリン主義を綱領的立脚点とするプロレタリア党の創成のための闘い」として総括した革共同は、その旗のもとにブントの革命的翼を結集する闘いに勝利し、革命的労働者党建設に向かっての苦闘を開始した。
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●60年安保闘争の軌跡
1959年11・27 安保阻止統一行動で2万人の労働者学生が国会構内突入
1960年
1・16 岸訪米に対し全学連が羽田空港ビルに座り込み機動隊と激突
1・19 ワシントンで日米新安保条約調印
4・26 全学連、国会周辺で機動隊と激突
5・19 衆院安保特別委で自民党が採決強行。 警官を導入し、社会党議員を排除、会期50日延長、新安保条約承認の強行採決 5・19 衆院安保特別委で自民党が採決強行。 警官を導入し、社会党議員を排除、会期50日延長、新安保条約承認の強行採決
5・20 全学連、首相官邸突入
6・4 安保改定阻止第1次実力闘争、国労などストライキ。全国で560万人参加
6・15 全学連、国会構内突入、樺美智子さん虐殺される
6・18 国会への抗議闘争、空前の33万人
6・19 午前0時、新安保条約自然承認
6・23 新安保条約批准書交換、発効
全学連主流派を指揮した北小路敏氏
北小路敏同志 闘いの軌跡
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(写真 南通用門を破壊して国会構内に突入。最前列でデモ隊の学生に向かってトラメガで訴える北小路同志【1960年6月15日】)
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(写真 羽田弁天橋で京大生・山崎博昭君虐殺を弾劾し、装甲車を乗り越えて闘う。装甲車の上左端が北小路同志【1967年10月8日】)
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(写真 法政大学キャンパスで中曽根打倒、三里塚二期工事着工阻止の10・20空港突入戦への決起を熱烈に訴える【1985年9月】)
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(写真 三里塚反対同盟・敷地内農民の市東東市さんの逝去を悼み、三里塚現地集会で革共同を代表して追悼演説を行う【1999年3月】)
1936年8月4日 京都に生まれる
1954年 日本共産党に入党
1956年4月 京都大学入学
1959年9月 共産主義者同盟に加盟、日共京大細胞を解散
1960年 60年安保闘争で全学連委員長代行となり、国会南通用門で樺美智子さんが虐殺された6・15闘争の先頭に立つ
1961年6月 革命的共産主義者同盟全国委員会に加盟
全学連17回大会で委員長に
1954年 日本共産党に入党
1956年4月 京都大学入学
1959年9月 共産主義者同盟に加盟、日共京大細胞を解散
1960年 60年安保闘争で全学連委員長代行となり、国会南通用門で樺美智子さんが虐殺された6・15闘争の先頭に立つ
1961年6月 革命的共産主義者同盟全国委員会に加盟
全学連17回大会で委員長に
(以下、 写真はコラム】日本の新左翼運動の原点 60年安保闘争から拝借)
左手を抱えられているのが機動隊暴力で倒れた樺美智子さん。
この時すでに息絶えていたといわれる。