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鉄路に生きた生涯 中野洋前委員長が語る動労千葉の歴史と闘い その①

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 中野洋前委員長は、1940年2月に東京都旧本郷区に生まれる。44年には母親の実家のある千葉県勝浦市に疎開し、少年期を過ごすことになる。父親は44年に召集されて戦死し、保母をしていた母親に育てられる。
 幼少の頃から活発な性格で、千葉県一の進学校であった千葉一高(現在の千葉高)に進学し、勉学のかたわら、相撲部に在籍した。

 高校卒業後、多くの同級生たちが大学に進学する中で、国鉄に就職する道を選ぶ。1958年に臨雇として採用され、勝浦機関区に配属になる。採用後、すぐに動労(動力車労働組合)に加入するが、当時の動労千葉地本は、非常に右翼的な体質の強い組合だった。

  ちょうど、60年安保闘争や三池闘争など階級闘争が新たなうねりを開始する中で、早くから労働運動の世界に飛び込み、動労千葉を形成する戦闘的な千葉地本に変革していく闘いの先頭に立つ。それから半世紀にわたる労働運動人生を歩む。

●戦後労働運動を乗り越える視点

 中野前委員長は、マルクスやレーニンの著作を学ぶと同時に、産別会議の日本共産党フラクの責任者だった斎藤一郎(49年に離党)の『戦後労働運動史』などの著作を読みあさり、戦後労働運動をいかに乗り越えるかという問題意識を早くから持ち続けていた。

  中野前委員長は、2000年に発行された『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』(以下、『軌跡』と略)で、重要な視点を提起している。

  「労働運動史というのは、客観的に一つ一つの闘いを見つめ、評価し、教訓化しなければならない面があると同時に、極めて党派的に見ていかなければならないということがあります。いまわれわれは、大失業と戦争の時代において、闘う労働運動の新しい潮流をつくろうといっている。つまりたいへん厳しい情勢がきている中にあって、総評労働運動が解体した今日、それをいかにのりこえる労働運動をつくりあげていくのかという立場から、戦後労働運動史を見るということが必要なのであって、なにか一般的に歴史をながめるというのではだめだということです」

  「より正確にいえば、日本の労働運動全体、日本の階級闘争、日本の革命運動全体を常に視野に入れて、自分たちの産別の闘いも進めるということです」

  「つまり、日本の労働運動全体の戦闘化というか、階級的労働運動を再び奔流のごときものにしていかなければならないという立場から、国鉄闘争の重要な位置を見極めることが求められている」


 「戦後革命期」―総評の結成

 「戦後革命期、一九四五年の敗戦から一九五〇年の総評結成までですが、これは日本の歴史の中でも唯一革命的な情勢といえる時期ではないかと思います。ここで僕は、『戦後革命期』といったわけだけれど、こういう規定のしかたじたいが党派的なんですね。日本共産党の場合は、絶対そういうふうにはいわない。やはり六〇年安保闘争前後に、新左翼が登場して以来、この時期が戦後革命期だったんだ、その戦後革命に敗北して、今日の情勢もあるんだという認識が確立していったんですね」
 敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)による占領政策のもとで、労働組合が雨後の竹の子のように誕生し、ナショナルセンターも結成される。ひとつは戦前の右翼的労働運動の流れをくむ総同盟であり、もうひとつは、日本共産党の指導下にあった産別会議である。


 2・1に向かう闘いとその挫折

イメージ 1 この時期の象徴的闘いが1947年の2・1ストに至る闘いとその敗北である。官公労働者の経済要求、「飢餓突破賃金をよこせ」という闘いから、吉田内閣打倒の闘いへと発展する。しかしそれは、GHQのマッカーサーの指令で中止させられる。
 「直前になって銃剣をつきつけられて、全官公の伊井議長が、NHKを通して有名な『一歩後退、二歩前進』ということをいって、ストの中止を指令します。これはやはり日本共産党の、『アメリカ占領軍=解放軍』という誤った規定の結果ですね」

 「二・一ゼネストは挫折し、敗北しますが、なぜ敗北したのかははっきりしています。つまり党の問題だということですね。日本共産党は、正しく労働者階級の先頭にたつ前衛党ではなかったということです」

  「一方、挫折したとはいえ、二・一ストにむかう日本の労働者階級の闘いの中に、アメリカ帝国主義も、復活をもくろむ日本帝国主義も、革命のヒドラを見たわけです。それで、これを徹底的に叩きつぶすという方向にカジを切ります。具体的にいうと、四七年の四月に日経連(日本経営者団体連盟)が発足します。そのスローガンは、『経営者よ正しく強かれ』でした」

  その後、労働組合運動の分裂が始まり、産別民主化同盟や国鉄反共連盟ができる。他方、労働運動弾圧も強まり、1948年には政令201号により、官公労働者のスト権と団体交渉権が剥奪される。そうした中で定員法による国鉄10万人首切りが強行され、1950年の朝鮮戦争勃発を機にレッドパージの嵐が吹き荒れる。

50年には、総評がGHQの肝いりで結成され、「北鮮軍の侵略反対、国連軍支持」を掲げる。だが、その総評は51年には「平和四原則」を決定する。「ニワトリからアヒルへ」の転換である。それを決定的にするのが国労新潟大会での「平和四原則派」の勝利である。

 この51年5月に、動労の前身である機労(国鉄機関車労働組合)が、国労から分裂して結成される。当初は非常に職能意識の強い、右翼的体質の組合だった。


--つづく--



国鉄千葉動力車労働組合
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