京大学生運動が産んだ「なにわの赤ヒゲけ先生」、こと末光道正医師の講演会
NF講演会に来てくださった京大OB・末光道正医師
末光さん、あらためてありがとうございました。当日の講演会の様子を以下に記します。
末光さんは先ず、先般の京大公安摘発事件に触れ、「胸がすく思いで、元気が出てきた!」と語られました。釈放された京大生2名もその場に居り、この間の学生運動の進展を改めて感じさせる講演会として始まりました。末光さんは1960年半ばに京大医学部に入学しました。
入学当時、京大では政治が無かったそうです。しかし68年以降東京からインターン闘争がやってくると京大の自治会委員長が逮捕され、それを機に末光さんは活動に参加することとなりました。医学部でクラス決議によってバリストを行い、バリケードの中で自分たちのやりたい授業を行ったといいます。
それと同時期に青年医師も闘っており、青医連を結成し全国化していきました。それまで医局が青年医師の配属先を決めていましたが、青医連はその配属の決定権を奪い、本当に医者が必要な地域に青年医師を配属させることができるようになりました。末光さんは卒業後、青医連によって八尾市に配属され、それ以来八尾市において地域医療を担われています。
このように、闘争自体は1年ほどで終わってしまいましたが、たとえ短期間でも大学内に学生が自治空間を生み出すことができたこと、配属の決定権を青年医師が奪うことができたという経験は非常に重要です。学生には自治を行う力があることが歴史的に証明されているのです。
それと同時期に青年医師も闘っており、青医連を結成し全国化していきました。それまで医局が青年医師の配属先を決めていましたが、青医連はその配属の決定権を奪い、本当に医者が必要な地域に青年医師を配属させることができるようになりました。末光さんは卒業後、青医連によって八尾市に配属され、それ以来八尾市において地域医療を担われています。
このように、闘争自体は1年ほどで終わってしまいましたが、たとえ短期間でも大学内に学生が自治空間を生み出すことができたこと、配属の決定権を青年医師が奪うことができたという経験は非常に重要です。学生には自治を行う力があることが歴史的に証明されているのです。
さらに言えば現在では京大をはじめとする全国の大学で学生運動が盛んになり、警察の諜報活動や弾圧を乗り越えて力強い団結を作り上げています。次の社会の展望はここにあります。大学を「自分たちで守り、自分たちで運営する」ために全学生は団結しましょう!
京都大学同学会中執 大森
京都大学同学会中執 大森
末光道正医師とは…
1970年安保闘争の京大闘士。京大病院での青年医師連合のストライキ闘争で作られた臨時評議会より、下水施設も通らず、病気が蔓延していた被差別部落であった西郡に医師として派遣され、以後40年近く現役で医師を続けており、八尾北医療センターの現院長である。
八尾北医療センターとは…
1946年天然痘が流行、行政による村内隔離で子どもを中心に200人が死亡した。これに対し51年に西郡平和診療所を開設。住民が資金と資材を出し合い医師も自力で捜す。
1970年安保闘争の京大闘士。京大病院での青年医師連合のストライキ闘争で作られた臨時評議会より、下水施設も通らず、病気が蔓延していた被差別部落であった西郡に医師として派遣され、以後40年近く現役で医師を続けており、八尾北医療センターの現院長である。
八尾北医療センターとは…
1946年天然痘が流行、行政による村内隔離で子どもを中心に200人が死亡した。これに対し51年に西郡平和診療所を開設。住民が資金と資材を出し合い医師も自力で捜す。
全国発のトラホーム集団無料検診開始。82年4月八尾北医療センター開設。
98年大阪府による病院民営化=売却攻撃が激化。00年八尾北医療センター労組を結成し反撃。03年末光院長解雇・大病院の乗っ取りを阻止。05年医療センター自主運営開始。
10年市議会、医療センター明け渡し提訴
2012年八尾市による明け渡し請求棄却の地裁判決。自主運営継続を勝ち取る。

八尾北医療センターと末光院長



